人生の道草




人生の道草(昔と今)

 

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2020年 4月10日 全面リニューアル

本ページでは、家庭生活環境の昔(私の子供時代)と、今の変わりようを紹介します。

私と同世代の方にとっては、「昔はそうだったなあ!」と思い出すことになると思います。また若い世代の方にとっては、以前はこんな生活だったことを知り、それが50年~60年程度経過した今では、こんなに変化したことを知ることにより、逆に、今便利と思っている生活も、今後40~50年後には、どの様に変化しているか、想像を逞しくしてもらいたいとおもいます。

新しい物が登場したときは、なんと便利な物と思い、その時は、これは究極の物と思っても、その後更に便利なもの、新しい物がどんどん登場してきます。
そういった意味で、今後も色々な分野で無限の可能性があるということです。

分類   機能等  昔  今
 通信 電話  ・固定電話機が何軒かに1台設置
 ・携帯電話を、1人複数台所有
 家庭生活      トイレ  ・汲み取り式  ・水洗トイレ
 風呂  ・風呂の無い家も多数あり、他の家の風呂を借りるか、銭湯を利用

・火力は、薪、ガス、石油
 ・昔からのアパート以外は、殆ど各家に風呂がある

・火力は、ガス又は電気
ガス台  ・マッチで点火  スイッチを押して点火
 暖房  火鉢で炭火  エアコン、床暖房等
 石鹸  1種類の石鹸で、洗濯から体全身を洗う。  目的別、体の部位別に洗剤が異なる。
 ペット  犬は番犬で、家の外で飼い、エサは、残りご飯に味噌汁をかける程度  犬は、ペットであり、室内で飼うことが多く、食料も、犬専用のペットフードが多数有る。
 買い物等   日常の買い物  ・近所の店で食料品等を購入
・御用聞きによる買い物も多かった
 ・スーパーでの買い物
・ネットでの買い物
・量販店での買い物
・コンビニでの買い物
非日常の買い物  年に数回、最寄のデパートで買い物  ・ネットでの買い物
・専門店での買い物
 家電         冷蔵庫  大きな氷の塊で庫内を冷やす。  電気で冷やす。
衣類の洗濯 洗濯板で洗濯  全自動洗濯機
 ラジオ  真空管のラジオが、一家に一台  トランジスタ等のラジオが一家に複数台
 テレビ  ・小学生の頃、白黒テレビ登場
・全家庭にTVがある訳でなく、TVがない家は、TVのある家に行き見せてもらった
・1日の一部の時間のみ放送
 ・各家庭に複数台のTVあり
・携帯電話でもTV視聴可能
・殆ど、1日中放送
 テレビの録画  ・最初は、機能なし
・その後磁気テープに録画
 ・一時録画はハードDISK
・保存はブルーレイDISK
映像の記録  ・8mmフィルム  ・内部メモリー、メモリカード
音楽
(レコード)
 ・直径30cm程度の円盤のSPレコード、その後LPレコード  ・CDや、音楽配信
 音声の記録  ・オープンテープ、カセットテープ  ・内部メモリ等
 情報機器    パソコン  昔は、パソコンなし  家庭及び事務所等でパソコンを活用
 インターネット  昔はインターネットなし  家庭及び業務でインターネットを活用
 電子メール  昔は電子メールなし  家庭及び業務で電子メール活用
 事務機器   コピー機  就職当時(1970年頃)は、薄い紙に書いた文字等を、印画紙の上に重ねて光を当てて焼き付ける方式(カラーはない)  普通紙をそのままカラーでコピー
 卓上電子計算機  学生の頃(1968年頃)、今のノートPC程の大きさの卓上計算機  手のひらサイズ以下
 学校  暖房  ダルマストーブで石炭  エアコン等
 食生活  カロリー  安くて、量があり、カロリーの多い食べ物が重要  カロリーが少ない食べ物が重要
 子供の遊び    メンコや、牛乳びんのふた等を集めて遊んだ  電子ゲーム等
 交通  路線バス  運転手とバスガールの2人で業務  ワンマンバスで運転手1人だけで業務
以下には、上記の幾つかの項目に関して、昔の状況等を覚えている範囲で説明します。子供の頃の記憶ですので、多少年代が前後する場合もありますが、ご了承ください。
電話機 <昔>
1955年頃は、電話機(今で言う固定電話)は未だ各家庭にはなく、2~3軒に1台位の割合であったように記憶している。

例えば、電話の無い家(Aさん)に電話連絡する場合は、隣近所の電話の有る家(Bさん)に電話し、電話に出たBさんに、Aさんの呼び出しをお願いします。
呼び出しを依頼されたBさんは、電話機の受話器を外したままにし(昔は、保留機能は無いので、電話の通話状態を保持するためには、受話器を外して横に置いておきました。このときは、相互の音は通じる状態のままでした。)、Aさんの家まで行き、○○さんから電話が入っている旨を話す。Aさんは、すぐBさんの家に行き、外してある受話器を持って電話に出て通話を始める。

学校の生徒の名簿等にも電話の無い生徒Aの電話番号欄には、呼び出し先としてBさんの名前とBさんの電話番号が記載されていた。

逆に、Aさんが、誰かに対して急いで電話連絡をしたい場合は、近所の電話機の有るBさんの家に行き、電話を借りて電話を手短にして、終わったら、電話代として幾らかBさんに渡して帰ってきました。

現在からは、信じられない状況ですが、それだけ電話機の普及が未だであったのと、隣近所との付き合いがあったのだと思います。

<現在>
固定電話はありますが、携帯電話機の方が台数が多く、1人1台以上所有している。

自宅に固定電話があるにも関わらず、自宅から電話する場合も、つい携帯電話を使って電話を掛けてしまう状況である。

この変化は、簡単に言うと

数軒で1台の電話機>1家に1台の電話機>個人で1台以上の電話機(場所も家には無関係)

という変化になってきています。
また携帯電話は、単に通話する機能の他に、カメラ、メール、音楽のパソコンの機能等も合体してきています。

今後は、どの様に変化するのか予測できません。
 トイレ  <昔>
小学生低学年の頃(1955年頃)、便所(トイレ)は汲み取り式でした。
便所の下に糞尿をためるところがあり、時々業者が便所の下の横から長い柄杓で、溜まった糞尿を汲み取っていきます。

その後は、バキュームカーによる吸い取りになりました。
昔は、便所にしゃがんで用を足している時に、汲み取り業者が丁度来るときがあって、それがとてもいやだった思い出があります。

<現在>
トイレは殆どが水洗式であり、さらにウオシュレットまで装備されてきました。

水洗式は清潔であり便利ですが、震災等で、上水道も下水道も損害を受けて、トイレが使用できずに非常に困ったとの話を聞くと、昔の汲み取り式であれば、数日上下水道が止まってもトイレの使用はできるのにと思ったりもします。

この変化は

汲み取り式>バキュームカーによる吸い取り式>水洗式

今後は、健康診断機能の追加とか、なるのでしょうか。
 風呂   <昔>
小学校の頃(1955年頃)、風呂はまだ各家庭に有るわけではありませんでした。
また、アパートも殆ど風呂はありませんでした。
従って、風呂の無い家庭は、町の銭湯に行くか、又は近所の風呂のある家の風呂に最後に入れてもらいました。(もらい湯)

各家庭の風呂の火は、昔は薪のところもありましたが、その後、ガス、石油になりました。
ガスと言っても、現在の様に、スイッチで点火するものではなく、マッチでガスに点火する方式です。

風呂を沸かす手順は、まず風呂に水道から水を入れます。水が適量になったら水道を止める。(時々、水を入れているのを忘れたり、また まだ一杯にはなっていないだろうと思っていて水が風呂桶から溢れてしまうことがあった。)

次に、ガスや石油に火を点けてお風呂を沸かす。これも、時々、風呂桶に手を入れて熱さ加減を見て、ガス等を止める。(時々、まだ熱くならないだろうと油断して、熱くなりすぎて、今度は水を入れて温度を下げることもあった。)

入浴していて、風呂のお湯がぬるくなってなってきたら、また、ガス等を点火して加熱する。

親戚の家には、五右衛門風呂があった。
五右衛門風呂とは、浴槽自体が鉄製であり、その浴槽を下から薪を燃やして加熱する。従って、直接 風呂の底に足を付くと火傷するので、木製の底板という板が浴槽に浮いていて、入浴するときは、その浮いている板の中心部に乗って、木製の板を底に沈めて入浴した。
私が子供の時であり、体重が軽かったので、木製の板に乗って、板を沈めようとするとき、板の浮力でひっくり返りそうで、とても怖かったことを今でも覚えている。

<現在>
全自動の風呂では、お風呂の浴槽の栓をして蓋を閉めておけば、入浴したい15分ぐらい前に、台所等のスイッチを押せば、自動的に水を温めながら風呂桶に入れ、適量になったら給水は停止し、最後はお湯を加熱し、設定温度になったら加熱を止め、お風呂が沸いた旨音声でアナウンスしてくれる。

入浴中も、風呂のお湯が少なくなったり、また温度が低くなったら、自動で給水や加熱をして ほぼ一定の湯量、温度を保持してくれる。

この変化は

人手で給水/停止、人手で点火/停止>自動で給水、加熱、停止

 石鹸  <昔>
子供の頃(1955年頃)、衣類の洗濯も、風呂で頭、顔、体を洗う石鹸も1種類であったように記憶している。もしかしたら子供は1種類の石鹸だったが大人は、洗う目的で石鹸の種類を分けていたかも知れない。

<現在>
洗濯には、洗濯用の洗剤、身体を洗うのにも、頭髪用にはシャンプー、リンス、洗顔用石鹸、ボディーソープ、手洗い用石鹸等、多種多様である。
また、年齢、性別向けにも製品があり、ベビー用石鹸、男性用石鹸、女性用石鹸、中高年向け石鹸、加齢臭用石鹸等様々です。

この様に、多種多様の石鹸、洗剤があるのは、一部にはメーカーの売り上げ拡大の為の戦略も多分にあると思います。


 ペット(犬)  <昔>
子供の頃(1960年頃)から家で番犬として犬を2回飼ったことがある。我々子供が犬を飼いたいと要望したのではなく、母が犬が好きで、飼ったのだと記憶している。
今みたいにペットショップはなかったので、2回とも近所、知り合いで生まれた子犬を貰ってきた。

犬は、家の外に、簡単な犬小屋を置いて、鎖をつないで飼っていた。

エサは、残りご飯に、味噌汁をかける程度で、時々 煮干を入れてあげた。エサをあげるととても喜んで食べていた。食べ終わって、「もっとくれ」よ催促するときもあった。

毛が汚れてくると、時には、お湯を掛けて、石鹸で洗ってあげた。

我々家族が旅行に出かけるときは、親戚に家に泊まってもらい、犬の世話をお願いした。

家の外で飼っていたので、夏 蚊に刺されて、かわいそうでしたが、1回目の犬は、蚊が原因の病気で亡くなってしまった。

はっきりとは覚えていませんが、家庭で飼う犬も種類も、数種類だけでした。主な種類は、コリー、シェパード、スピッツ、ブルドッグ、柴犬、秋田犬

<現在>
現在、私は犬を飼っていませんが、親戚や、友人の状況を見ると、随分昔とは違うなと思います。

・ペットショップに生まれたばかりの様な子犬が並んでいて、気に入った子犬を購入します。(友人等から、生まれた子犬を分けてもらうことが、今でもあるとは思いますが、その割合は、少ないのではと思います。)

・犬を家の中で飼う場合も多く、まさに家族の一員という感じです。
 街中を歩いていると、犬を背負っていたり、前にだっこしていたりする光景を目にします。また、前からベビーカーを押して来る人とすれ違う時、どんなあかちゃんかと、チラッと目をやると、中に犬が居ることも珍しくありません。

・犬の種類も多く、特に小型犬が増え、小さなバッグに入れて自由に移動できる感じです。

・食事も(昔は、エサ言っていたが、今では「エサ」という用語はそぐわない感じ)、様々な缶詰等がペットショップや、スーパー、ドラッグストア等に並んでいる。
注意しないと、我々人間の食べ物と間違えて買って口にしてしまいそうである。
さらには、犬の種類別に食料が販売されている。

・衣装も、昔は全くなかったが、今では、カラフルな衣装がある。

・美容は、昔は、時々石鹸で身体と毛を洗うて程度であったが、今では、あちこちにペット用美容室があり、毛のカットから、洗い、ブロー、爪の手入れ等をやってくれる。

・動物病院も多くなった。

・飼い主が、旅行に行く場合、犬等を預かってくれる店ができた。さらには、飛行機でも、犬を運んでくれるし、犬を連れての宿泊が可能な宿もある。

・葬式、墓も、ペット専門の葬儀屋や、墓地も出来てきた。

・食事や健康管理が良くなった結果、犬も長生きするようになりましたが、それに伴って、成犬病(人の成人病に相当)に罹ったり、犬もおむつをしたりと、人間の高齢者と同じ症状が現れるようになってきました。


昔は、人間自身が食べて行くのがやっとだったので、犬は家の外で飼い、残りご飯に味噌汁かける程度のエサをやって飼っていた。(今のペット愛好家から見ると、昔はペット虐待と見えるかもしれませんが、当時は、それが普通でした。)




 日常の買い物  <昔>
中学生の頃(1960年頃)、私の母親は野菜や、肉、魚等の日常の買い物は、家の近くの店で買っていました。

また、御用聞きといって、店の人が、各家を回って注文を聞き、後で、注文した物を各家に届けてくれました。

御用聞きは、毎日ではなく、2~3日に1回程度でした。
御用聞きは、八百屋さん、酒屋さん、肉屋さんとうでした。
さらに、クリーニング屋さんも、各家を大きな箱を付けた自転車で回り、クリーニングする衣類を回収し、クリーニング後の衣類をと届けていました。

時には、電話で酒屋屋等に注文して、商品を届けてもらうこともありました。

とにかく、近所の店で日々買い物をしていました。

<現在>

・現在は、近所のスーパーで日常の食料を購入することが殆どです。
 日常の衣類も、近くのスーパー、量販店で購入します。

・電気製品も量販店で購入します。

・さらに、スーパーでもネットでの購入し、配達も依頼できるようになってきました。

・コンビニでも、日々のちょっとした買い物ができます。 特に高齢者で1人暮らしですと、スーパーに行くより、直ぐ近くのコンビニで一人用惣菜等を買えば、十分です。
さらに、昔は税金等の公共料金等の払い込みは、郵便局か銀行でしたが、平日の日中 仕事をしている人は、中々 郵便局等に行く時間がありませんでした。 それが、今では、夜間でも近くのコンビニで公共料金の払い込みができるので、非常に便利です。
 冷蔵庫  <昔>
小学校低学年の頃(1955年頃)、冷蔵庫内を冷やす元は、氷の塊でした。街には氷屋があり、時々 その氷屋から氷の塊(20cm立方程度)を配達してもらい、その氷の塊を冷蔵庫の中に入れて、冷蔵庫内を冷やします。氷の塊が融けて小さくなると、また氷の塊の配達を依頼します。
その様な冷蔵庫ですから、今の様に、冷蔵庫の中で水を凍らせることはできません。

<現在>
電気を使用して、冷蔵庫内を冷やし、水を凍らせたり、冷凍食品の保存もできます。

冷蔵庫の機能は、省エネの向上もありますが、今後は、冷蔵庫内の消費期限が近い食品に関するアラーム機能でも追加されるでしょうか。
 ラジオ  <昔>
小学校入学した頃(1955年頃)は、一家に一台の真空管式のラジオがありました。大きさは、横30cm、高さ20cm、奥行き20cmぐらいの木の箱に入っていました。
子供番組が始まると、ラジオの前で一心に聞いたものです。当然映像は無いのですが、ラジオの向こう側の世界を想像して、頭の中では映像が再生されていました。

毎日の、子供番組が楽しみでしかたがなかった思い出があります。

その後は、トランジスタラジオが世の中に出ると、小型なトランジスタラジオへと、主流が変わっていきました。

真空管ラジオでは、電源は家庭の100Vコンセントであったが、トタンジスタラジオになると、電源が乾電池でも可能となり、持ち運び自由になった。

家の中での持ち運びは勿論のこと、家の外、ピクニック等へ持ち運ぶことが自由になり、使用場面が大幅に拡大された。

私が高校受験の頃(1965年頃)、ラジオから流れる深夜番組を聴きながら夜中受験勉強をしたことを思い出す。

また、ラジオから流れるアメリカの音楽や、日本のポップス等のヒット曲を夢中になって聴いた時代もあった。

ラジオが娯楽の中心であった時代もあった。

<現在>
最近は、特にラジオを意識することは無くなってしまいました。大きさも小さいものは手のひらサイズ以下になり、家の中に何台あるか特に意識されなくなってしまいました。
また、ラジオの聞く場面としては、車を運転中とか、何か作業をしながら聞くとか、夜ベッドに入って、寝る前に聞く等になっています。
特に、毎日 特定の番組を聞くという人は殆どいなくなりました。
ラジオが注目されるのは、災害等でTVが映らなくなった場合の、災害に関する情報収集のときです。

私は、現在ラジオは殆ど聴くことはありませんが、テレビは目と耳が必要なのに対して、ラジオは耳だけでいいので、車を運転しているとき、工場等で作業をしているとき、家で料理等の家事をしているときは、色々な人に聴かれていると思いますし、今後も残って行くと思います。

ただ、今後 まだ何か大きな変化の可能性もあると思います。
 テレビ  <昔>
小学校の後半の頃(1958年頃)、テレビが家庭へ普及し始めたと記憶しています。
最初の頃は、一部の家庭にしかテレビは無く、子供番組が夕方始まる時刻になると、テレビのない家の子供達が、テレビのある友達の家に集まって、テレビ放送を見せてもらっていました。その時間が、いつも夕食の時間帯なので、テレビのある家庭には、迷惑を掛けていたなと今でも思い出します。

テレビ放送は、最初はモノクロで、放送局も少なく、放送時間も一部の時間帯のみでした。

あいまいな記憶では、朝は6:00頃から放送を開始し、14:00頃一旦放送を終了し、17:00頃から再度放送を開始し、夜中の24:00頃1日の放送を終了する。

この様な感じで、テレビ放送がある時間は、1日の半分前後だったと思います。

テレビのチャンネルを切り替える部分は、回転式の機械的スイッチであり、時々チャンネルを切り替える接触部分が錆びて接触不良となり、映像が映らなくあると、テレビの裏蓋を開けて、錆びた接触部分に練り歯磨きを少し付けて布で磨いていました。

その後、段々テレビが全家庭に普及していきました。

テレビは、まだ高価であり、各家庭では居間に1台置かれており、そのテレビの前に家族が集まり、テレビ放送を見ていました。

従って、同じ時間帯に家族によって見たい番組が重なると、チャンネル争いが生じ、話題にもなりました。
やがて映像は白黒から、カラーになっていきました。
テレビも最初の白黒用からカラー用買い換える必要がありました。

まだ白黒のテレビ放送の方が主流だったときは、新聞のテレビ番組表には、カラーの放送には「カ」のマークが付いていました。

<現在>
テレビは全家庭に複数台あり、1人1台の時代である。
テレビ放送はカラーであり、最近は3Dも出始めている。
また、テレビは家の中で見るだけでなく、携帯電話機で見たり自動車の中でカーナビで見たりと、移動中でも視聴できる。
テレビ放送も。殆ど1日中放映している。

随分 変化したものである。

今後はどのように変わっていくのだろうか。
今も、テレビが見られるパソコンが多くなっているが、今後益々、パソコンとテレビが一体化してくるだろうが、やはりパソコンは個人で使用する部分は残っていくだろう。
また、オンデマンド等で、視聴者が見たい番組を見た時間に見る機能も充実してくるだろうが、日本中で、同じ時間帯に、同じ番組が放映されることは続くと思う。子供達や学生、会社員でも、会ったときに前日のテレビ番組を話題と出来るのは、多くの人が、同じ時に同じ番組を見ているからである。
これが、皆全く別の内容を見るようになったら、テレビ番組は共通の話題の場から消えて行く運命を辿るのではないか。

もうひとつは、NHKの受信料の問題がある。
現在は、NHKの担当者が、各家を回ってNHKの受信料の契約を結んでいるが、実際にはテレビでNHKを視聴していても、NHKとの契約をしない人もいるし、またテレビが一家に複数台あったり、またパソコンでテレビが見れたり等でNHKの担当者が個別に回って契約を結ぶのは人件費がかかり非効率であり、また不平等である。

今後は、契約を結んでいるテレビでのみ、NHKの放送を視聴できる仕組みになると思う。

テレビの録画   <昔>
家庭でのテレビ映像の録画機能は、、テレビが普及してから大分後だったと思う。当初は、弁当箱ぐらいの大きさのカセット方式の磁気テープに2時間分のテレビ映像を録画できた。

<現在>
一時録画はハードディスク、外部保存はDVDからブルーレイディスクへと変化してきている。
 映像の記録  <昔>
私の子供の時代(1955年頃~1970年頃)、家庭での映像の録画は、8mmフィルムであった。最初の頃は、映像のみで音の記録はできなかったが、後半は映像と音が同時に記録できた。

1本の8mmフィルムに記録できるのは、3分間であった。映像を記録した後は、現像に出し、それを1本単位で映写にセットして、部屋を暗くして白い布等のスクリーンに投影して見た。又は、数本まとめて繋ぎ合わせて、10分、20分等の単位にして見た。

その後、テレビの録画用と同じカセット式の磁気テープへ記録するビデモカメラが発売され、さらに8mmの磁気テープへ記録するビデオカメラ、DVDに記録するカメラと変化していった。

<現在>
一時的に内部メモリに記録し、外部へはメモリカードに記録するカメラが中心である。
カメラのサイズも手のひらに載る小さなものである。

この様に、60年程の間に、映像の記録媒体は、8mmフィルム>VHS磁気テープ>8mm磁気テープ>DVD>ブルーレイディスクと変化してきた。

このため、昔の子供時代の映像を記録した8mmフィルムは、VHS磁気テープに変換し、さらにDVDへ変換しと、2回も変換して保存してある。
現在は、ブルーレイディスクが最新であるが、DVDもまだ十分使用できるのでDVDまでの変換で留まっているが、今後DVDの機械が世の中から消えていくと、さらに変換が必要になる可能性もある。

技術が進歩することは嬉しいが、記録媒体の互換性がないので、昔の映像は、その度に変換が必要になるのが迷惑である。
 音声の記録  <昔>
私の子供の時代、家庭での音声の記録は、最初はオープンリールの磁気テープであった。大きな機械に幅が1cm程度の磁気テープをセットし、マイクから音声を入力すると、磁気テープに記録され、そのテープを再生すると、記録した音声がスピーカーから聞えてきた。

私が学生の頃(1966年頃)カセットテープがでてきた。
オープンテープを機械にセットする時は、テープをリールから引き出し、ローラの間を通し、ヘッド(音声を磁気テープに記録/磁気テープから再生する部分)の前を通す作業が必要だったので、実際にカセットに触れるまでは、カセットという小型の箱のまま、録音する機械にポンと入れれば、音声が録音/再生できる状態になるのが理解できなかった。

その後、マイクロカセットという、さらに小型のカセットも出てきた。
またMDも登場した。

<現在>
記録は、内部メモリに記録し、またCDに保存する。

一時は、カセット一色であり、また有名なウォークマンが流行った時代もあっという間に、昔の出来事になってしまった。

ただ一部の人は、未だカセットレコーダでカセットテープを使用して音声の記録を行っており、店でもカセットテープを纏めて買っていく客がいると話していた。

私は、子供の声を録音しておいたカセットテープをデジタル変換してパソコン内に保存した後、カセットテープ及びカセットレコーダは廃棄した。

 レコード
音楽の記録)
 <昔>
私の子供の時代、音楽はレコードの購入等して、家庭でレコードプレーヤーで聴いた。

最初の頃はSPレコード(直径30cm程度の円盤)であり、その後LPレコードであった。

レコードは1枚が重く、またキズや埃が付かないように保管が大変であった。私が勤めてから(1970頃)もレコードを時々購入したことを覚えている。

<現在>
音楽はレコードをプレイヤーにかけて聴くという固定観念は、CDの登場で、あっという間に崩れ去ってしまった。

音楽は、CDを購入して聴く時代になり、さらには、ネットでダウンロードして内部メモリに保存して聴く時代になった。

私は昔買ったレコードが、20~30枚あったが、全部捨てた。
レコードをディジタルに変換する方法もあるが、手間がかかるのと、レコードプレーヤーも捨ててしまっていたので、変換せずにレコードを捨てた。

 学校の暖房  <昔>
私が小学校に入学した頃(1954年頃)、小学校の教室の暖房は、ダルマストーブ(ダルマの形をした大きなストーブ)で石炭を燃焼させて暖房としていた。

ストーブ当番が決められており、当番は大変であった。

朝は、他の生徒より早く学校へ行き、まず、石炭集積所から、大きなバケツに石炭を入れて教室まで運ぶ。 次にストーブの中に古新聞紙とその上に薪を入れ、マッチで新聞紙に火をつける。新聞紙の火が、薪に燃え移るように注意し、薪が燃えてきたら、少し石炭をストーブに入れる。少し入れた石炭が上手く燃え出したら、さらに石炭を追加して入れ、後は、ストーブ内の石炭が燃えて少なくなってきたら、石炭を追加し、火が消えないように日中も維持する。

上手く石炭が燃え出さないと、一度 ストーブの中の石炭等を取り出し、再度古新聞紙と薪を入れてマッチで火をつけるところから始める。

下校時は、ストーブ内に水を入れ、燃えている石炭の火を消し、燃えカスをかき出して、石炭の燃えカスの捨て場に持っていく。
またストーブ内の清掃等を行い、終了する。

<現在>
現在の小学校の暖房のメインが何か知らないが、エアコン等で暖房されており、少なくとも昔の様な苦労はない。
 食生活  <昔>
私が生まれた頃(1948年頃)や子供の頃(1955年頃)は、戦後直後であり、戦後の復興期であった。したがって、食料は不足しており、金銭的にも余裕がなかったので、食料は、安くて、量があり、カロリー多い物が要求された。 大人も今で言うメタボの人は殆ど見かけなかった。
また、動くと腹が減るので、必要な場合以外は、なるべく動かないようにしていた。

<現在>
食料にも経済的にも恵まれており、街には食べ放題、飲み放題の店が多数あり、テレビ放送でも、大食い競争だの、美味いレストランや、すし屋、ラーメン屋の紹介が多い。また、食のレポータも多い。

さらに、スイーツだの、デパートの食品売り場の売り場も賑わっている。
食べ物が溢れている感じがする。

これだけ、身の回りに食が溢れ、テレビ放送や雑誌等で美味い店の紹介等されると、つい必要以上に食べてします。
その結果、メタボになり、摂り過ぎたカロリーを消費するため、運動や、フィットネスが必要のになる。  さらに、ダイエット等により、カロリーが如何に少ない食べ物かを宣伝する。
食堂のメニューにもカロリー表示があり、カコリーが多くならないように注意して食事をする。

昔と今の変化を単純化すると

カロリーの多い物を食べ、じっとしている。>カロリーの少ない物を食べ、食食べ過ぎた分は、運動等で消費する。

 子供の遊び  <昔>
私が子供の頃(1955年頃)は、以下の様なことで遊んでいた。
その遊びを、現在と直接比べることはできないが、遊びには時代の流れが反映されていると思います。

(1)外での遊び
  雨でも無い限りは、外で遊んでいたように思う。

 ・メンコ:時々テレビ等でも、昔の遊びとして紹介されることがあるが、3cm×5cm程度の長方形の厚紙に、相撲の力士や、時代劇の主人公等が印刷されているメンコを集めて遊んだ。
地面に各自のメンコを表向きに置き、ひとりずつ、自分のメンコを手にとって、地面にたたきつけ、その風て相手のメンコを裏返せば勝ちで、相手のメンコをもらえる。
そうやって集めたメンコを箱に入れて大切にしていた。

 ・牛乳瓶の蓋:昔は、牛乳は、ビンに入れられており、紙の蓋がしてあった。(今のカミパックはまだ無かった。) その蓋を集めて、これも各自地面等に置き、手のひらを相手の蓋の上に置いてから、勢いをつけて手の平を上に上げて、蓋が裏返しになれば、もらえた。
 牛乳瓶の蓋も、箱に入れて大切にしていた。

 また、家では、牛乳を毎日1本配達してもらっていたが。その蓋を兄弟で、だらが貰う順番かでケンかになったことも何回かあった。

 ・5寸釘:家の建築現場等に落ちている長い釘(実際は5寸(約15cm)もなく10cm程度の長さのクギ)を、拾ってきて遊んだ。
相手の釘を地面に置き、その釘に対して、自分の釘を地面に向かって投げて突き刺し、相手の釘に接触して、地面に刺されば勝ちで、相手の釘をもらえた。

今になって思い出すと、子供の頃は、本当に、ゴミとなるものを集めて遊んでいたものだと思う。

 ・切手の収集:切手を収集することがはやっており、集めた切手を学校で見せ合ったり、又、切手と切手を交換したりした。
また、お菓子のおまけとして切手が入っているお菓子もあった。
珍しい切手は、売ると幾らだとかを競い合ったり、切手の相場の価格を載せた切手カタログも多かった。

 ・野球:野球といっても、ふにゃふにゃのゴムボールを使い、空き地で 少ない人数しかいない時は、その人数に合わせて、三角ベース(ベースは、ホーム、1塁、2塁の3つの塁)、または2つのベース(ホームと1塁のみ)で遊んだ。
 昔は、都心でも空き地があちこちにあって、不自由しなかった。

 ・ちゃんばらごっこ、缶けりも覚えている。

 ・冒険ごっこ:庭の木の上に、リンゴ箱等を集めて、小屋風のものを組み立て、秘密基地などと呼んで遊んでいた。

(2)屋内の遊び
 ・将棋の駒を使って遊んだことを覚えている。サイコロを振って、出た目の数だけ、各自の駒を将棋盤の周囲を進んで行き、一周する毎に、駒が出世して、最後王様になって一周すれば勝ちとなった。
 また、将棋の駒を、将棋盤の上に山積みし、その山から交互に、一つずつ駒を抜いていく。その途中で、先に駒が音を立てて崩れたら負けであった。

 ・戦争将棋(?正式な名称はわすれましたが)は、各駒に「戦車」、「飛行機」、「地雷」等に描かれていて、その駒を、将棋盤上に、各自自由に裏返しで配置する。
この将棋は、対戦者の他に審判が必要で、お互いに裏返しの駒を進めて行き、相手の駒とぶつかったときに、審判者が、相互の駒の内容を見て、勝ち負けを判断し、負けた駒は、盤面から除く。 例えば、「戦車」と「地雷」の駒の場合、「地雷」が勝つ。

 ・その他、トランプで7並べや、神経衰弱、ババ抜き等で遊んだ。
  

<現在>
 実際に、今自分が子供でないので、テレビ等で見る知識では、電子ゲーム等で遊ぶことが多いのかと思う。

 路線バス  <昔>
私が小学生の頃(1958年頃)、路線バスには運転手の他に、必ずバスガールが乗車していました。
乗客がバスに乗車すると、バスが走っている時に、バスガールは車内を回り、乗車キップの販売を行います。
当時のバスの運賃は、都内では、大人15円、子供10円だったと記憶しています。乗車キップは、2cm×4cm程度の長方形の紙製でした。

バスのドアは中央付近に1ケ所のみで、そのドアの直ぐ後ろに、バスガールが立つ定位置のスペースがありました。

バスが走行中、車内を回っていたバスガールは、停留所が近づくと、ドアの直ぐ近くにある、バスガールの定位置のスペースに戻ります。

そして、バスが停留所に停車し、下車する乗客から乗車きっぷを回収します。
バスが走行中に、混雑等で乗車きっぷを購入できなかった場合は、下車時に、お金を払って下車する場合もありました。

<現在>
バスの乗務員は、運転手1人だけです。
(昔のバスガールはいません。)

乗客は、バスに乗車時にカードを機械にかざすか、乗車場所を表すキップをとります。

走行中等に、小銭がない場合等は運転席の横にある、両替機で、お札をくずします。

下車用のドアは、バスの前方の運転席の横にあります。
下車する場合、乗車時に機械にかざしたカードを再度かざして、運賃を精算するか、運賃を現金で運転席横にある、支払い機に入れます。



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